葵が喜怒哀楽でその日おこったことをつづる日記のページです。
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2004年05月04日(火)

この日は、Audrey Hepburnの誕生日。
彼女のことについて少しお話することにしましょうか??
少しでも、彼女のことを理解してもらいたいです。

幼年期から有名になるまでのお話をしたいと思います。
誰も書かなかったオードリーの魅力をあなたに。。。

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私の衝撃的の出来事は
両親の離婚から始まる。

母のエッラが昔は美しく気性の激しい女性だった。
オードリーの父とは三度目の結婚であり、
すでに男児2人の母であった。

オードリーは痩せた印象があるが、幼年期はふっくらとしていた。
最高60kgまであったのだから、びっくりしてしまう。

戦争が始まって、食べるものが十分になくなってしまった。
摂食障害になり、拒食と過食を繰り返し、
精神的不安定で一生苦しむことになったのである。

アンネ・フランクとオードリーが紙一重で、
オードリーは逃げきれたが、
アンネは見つかってしまい殺されてしまう。

もし、アンネが生きていたらオードリーのように
有名になっていたに違いない。

なぜなら、あまりにも2人には共通点が多かったから。

例えば1929年6月12日(アンネ)同年5月4日(オードリー)
2人の女性はたった40日程の違いで生まれていたからである。

ハリウッドでの活躍が有名だが、
オードリーは昔、バレニーナを目指していた。

しかし、講師にプリマになれないと言われてしまったのである。

ところが、オードリーの素晴らしいところは、
内面から発するオーラみたいのものがあったからだ。

考えた結果、彼女は女優を目指す道を選んだのである。

このころから、本名:エッダ・ヘプバーン=ラストンから
オードリー・ヘプバーンと名乗るようになる。

シンデレラガールに違いないが、
下積みの辛酸をなめていることを忘れてはいけない。

イギリスの名優アレック・ギネスの目に止まり
「ラヴェンダー・ヒル一味」
の小さな役をのもらい初めて映画に主演することになった。

それが評価され「初恋」の映画に抜擢された。
演技は本当にチャーミングな彼女。

次に主演した「モンテカルロ・ベイビー」で偶然にも
有名な女流作家コレットの目に止まる。

しかし、コレットの命はあと三年しか残されていなかった。

最後の「ジジ」ブロードウェイ舞台の配役を捜していたのである。
ついに彼女を配役の相手を見つけた。

この娘が私の「ジジ」と・・・。

演技力のないオードリーは悩んだ末、受け入れることを決断。

同時に、ハリウッドの映画主演オーディションの
誘いがかかったのである。

イギリスの映画界はオードリーを見過ごしていたが、
さすがにハリウッドは見るべきものをみていたのである。

巨匠ウィリアム・ワイラー監督が次作「ローマの休日」の
イタリアのロケで使える新人のヒロインを捜してる最中。

オードリーという無名の少女にフィルム・テストを
受けさせるべしと、ワイラー監督は言ったのである。

映画と舞台どっちも決まれば、ニューヨークとローマを
身体を二つに裂けなければならない。
そんなことが起こるはずもない。

彼女はそう思っていたが、奇蹟は起こったのである。


フィルム・テストは上々だった。

事前にワイラー監督は、終わっても「カメラを廻し続けよ」と
内密にディレクターに命じてあったので、終了してもカメラが
回っていることは誰も知らない。

終了と共に、開放されたオードリーは生き生きとした笑顔が
そのフィルムに捕らえられていたのであった。

ワイラー監督にとっては賭けに違いなかったが、
オードリ−にしようと決断する。

グレゴリー・ペックが主演するので、実質的な主演を新人に任せても
上手くカバーできると計算していたのもある。

「ジジ」の舞台に立ってから「ローマの休日」の
アカデミー賞のを受賞するまで

正味2年半は、彼女にとって生涯の山場。
大きなピークの連続になった。

「ローマの休日」のあと「麗しのサブリナ」の主演。
「ジジ」のあと「オンディーヌ」の舞台に主演。

後年、仕事を厳選し余分な映画や意味のない企画にはのらない
オードリーとは別人であった時代。

舞台の長台詞をいつ覚えたのか心配したくもなるほど。。。


舞台も「オンディーヌ」以後、舞台に立たなくなった。
アメリカ演劇界最高の栄誉トニー賞に輝いたのにも関わらず
舞台女優の道をみずから絶った。

ハリウッド・スターとして生きる道を選んだオードリー。
しかしこんな忙しい最中、彼女は結婚するかしないかで
悩んでいたのである。

無名時代のときは結婚志向のほうが上回っていたからだ。

ナイトクラブやミュージックホールで、生活費と
バレエレッスン費を必死に稼いでいたときの出来事。

そのときに、ジェームズ・ハンソンと出会う。
ハダーズフィールドの運送業の御曹司の卵。美男子で長身。
裕福でプレイボーイ。 

ハンソンはオードリーのファンであった。
お金があるからいつかエスコートすることになる。
貧しいオードリーは、そんなハンソンに惹かれ
2人は恋仲になる。

結婚したら、お金に不自由しなくなるが
自分の夢も立たなくてはいけない。

そんなオードリーの夢にハンソンは反対していたが、
無駄のようだった。
ハンソンは、逃げられるかもしれないと直感したのだろう。

「ジジ」公演のときに結婚予定日を
ゴシップふうに公表してしまう。

彼女は「ローマの休日」の撮影終わるまで、
返事を先送りしていた。

失敗して世間からブーイングされたら、
結婚を選べばいいのだと考えていたふしもある。

多忙な中、ハンソンにしばしば手紙を
書いていたのも証拠立てている。

そのあと、一方的にマスコミを通じて「結婚破棄宣言」した。
ハンソンの田舎では、すでにオードリーのウェディングドレス
も用意され、結婚の準備は整っていたのにも関わらず。。

しかし、ハンソンは終生オードリーのことを
悪く言わなかったのである。

そのあと、彼は順調に実業家として成功して、
3人の子供にも恵まれて裕福な生活を過ごす。

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「ローマの休日」成功以来、
ハリウッドの道へ進んでいったオードリー。

ハンソンは、オードリーの魅力を
判って好きになっていたのだと思う。

本当にチャーミングでユニークなオードリー。
手放したくない気持ちもわからなくもありません。


ここまで読んで下さって本当にありがとうございました。

また、機会がありましたら、オードリーについて
お話したいなぁと思います。


参考文献:講談社+α文庫 
「誰も書かなかったオードリー」 吉村英夫

2004年5月2日(日)

この日は、いい天気だったので、
外で朝食を取りました。
GWだもんね〜!!!

やっぱり、外へ出たのはいいのですが、
恵比寿でよく見かける洋服店を東京の地下街にも
見つけてしまって思わず、入店。

ここから悲劇の始まり・・(笑)

店員さんの話を聞いていたら、東京では
恵比寿と東京の二店舗しかないとのこと。
これは偶然でしたが、縁があったのでは
ないかと思うしか他ない。

最初は、カーディガンを捜していたのだが
ダメですね〜〜。ここが私のダメなところ。

ワンピースとジャケットとキャミソールを購入。
お金は、羽をつけてひらひら宙に舞い上がった(笑)


でも、良いものを買ったのだから
開き直ることに・・・。

すご〜く素敵で、去年の悔しい出来事を思い出していた。
地元のデパートでワンピースが
品切れになっていて、涙したことを思い出した。

だから、そのことを思えば、いい買い物を
したんだ〜と思うことにした(単純??)

素敵なワンピースで涼しげで私に一番似合う色なのかなぁ・・。
その店の名前は「KATHARINE ROSS」キャサリン ロス

そのうち「表紙」や「Aoi’s photo」にも載せたいと思う。